未だコンピューターも珍しかった時代、1956年の4月末日に、私はプロペラ機のダグラスDC3で羽田をスウェーデンに向かって出発した。
少なくても2〜3年は、肉親との電話連絡も覚つかない初めての洋行は寂しく、いささか悲壮な面持ちで歓送の人々に応対していたにちがいない。
沖縄、ベトナム、インド、パキスタン、エジプト等給油地を経過して、飛び続け、コペンハーゲンに着陸したのは日本を発って48時間後であった。
期待に大きく胸を張って到着したストックホルムは予想と全く違った古風な5〜6階建てのビルに仕切られた整然とした街だった。
アメリカ風の高層ビルは視界の中には現れず、比較的平担な市街が湖水の様に美しい海に沿って建てられていた。
街で見られる市民は全て北欧系の白人らしく、黒人や東洋人などの有色人種は皆無であった。まだ、終戦後の日の浅い北欧には、ツーリストは居なかった。
外貨の制限も厳しく、旅費としての所持金はたった500USドルで、物価の安い当時でも一両日のホテル代にも足りない程の金額であった。
在留邦人も少なく、公使館員を除けば、全国で4、5人で、国費の留学生か公用の役人以外の民間人は元情報官だった小野寺氏夫妻、画家の瀬崎氏などで、とにかく日本人はこの国にはまことに珍しい存在であった。
郊外の下宿先から私は古めかしい電車でストックホルム工科大学の構内にある建築家ニルス・アルボム教授の事務所に通勤するのが日課となった。
ある朝、空いた車内で私を正面から凝視する中年女性の視線が気になりだし、偶然彼女と私との間に乗ってきた紳士の拡げた新聞の陰に、私は体をずらした。 ところが、次の瞬間、彼女も時を移さず反対方向に座り替え、新しいポジションからの観察は終点まで続けられてしまった。
事務所では午前午後と毎日図面の集配にやってくる50がらみで少々頭の毛の薄い中年男がいた。 彼は、少年が動物園の猿の檻から離れ難い様に、必ず、5分程、意味の無い言葉を投げかけながら、私の製図板を離れ無かった。 それほど日本人は希少価値があったらしい。
然し、それから半世紀以上の年月が経過した現在は、ストックホルムもロンドンやパリの如く、あらゆる毛色の外国人が住み着いているので、外人は珍しくもなく、また、社会機構の中で差別される事もない。 市民の外人に対する平等意識は高く、閣僚の一人には黒人の女性が選ばれている程である。
階級差の存在しないスウェーデンの会話の言葉使いは一通りしかない、とも言える。
日本語の会話が、相手の社会的地位により、常に多様の変化を強いられるのに反し、この国の会話は同等のレベルに基づく「仲間同志の会話」であると私は受け取っている。
子どもと親、先生と生徒、先輩と後輩、お客と売り子、それらの会話は全て、貴方"Du"で始まり、敬語不在の親しみのある会話で終わる。
然し、尊敬の意思を表したい時など、相手の職名で話しかけたりして、僅かのニュアンスは言葉使いで変化させるのは勿論可能である。
その昔、目上や高官に対して使われた"Ni"という敬語的な呼びかけも、現在は複数の相手を意味する場合を除いてほとんど使われていない。
会話の言葉ばかりではなく、人々の服装にもデモクラシーは影響している。
街中ですれ違う人々は老若男女の区別なく、70%位はジーパンをはいている。 東京の地下鉄の乗客のほとんどがダークスーツを着ている現状とは、判然とした対照である。
パーティなどで会った知らない相手には、スウェーデンでは話題として自分の事に関する話はまずしない。 従って、カクテル片手に相当おしゃべりをして、「あら、貴方、あの人知らなかったの、あの人ヴォルボの社長さんよ」という様な事も起こりがちである。 一方、身近な日常生活のエチケットの点では、育ちの良さが身についている英国人やアメリカ人と比較すると、スウェーデン人は「失礼」とか、「ごめんなさい」という様な挨拶は滅多にしない。 然し、その動機は、仲間意識の強いデモクラティックな社会の中で、ちょっとのことでそんな挨拶をするのはかえって気障で、白々しく響くのかもしれない。
一方、ハイヒールの女性や年寄りが駅の階段で転んだりすれば、人々は駆け寄って助け起こしてくれるし、女性が網棚から荷物を下ろそうとすれば、必ず、傍らの男性が手を貸してくれる。 この点は日本の男性とは大分違う所である。
日瑞両国の関係は、私が始めて訪れた1956年以来極めて親密で、個人的にも日本人は手厚く対応されるし、日本もスウェーデン社会の近代的所産の導入はいろいろの面で心がけている。
その一例として、1980〜90年にかけて、日本の住宅環境の改善の目的で、官民共々積極的にスウェーデンの建築および住宅開発のノウハウに一方ならぬ興味が示された。
私もスウェーデン住宅の均等な質を保持する建築基準法や住宅地区開発の現状について、北方圏センターや道庁の主催する講演会で北海道の建築行政を担当される方々に語りかけた。
東京でも大学や建築家の団体でスウェーデンの住宅計画の現状を紹介した。
スウェーデンからも機会があるごとに、工科大学の教授の建築家やストックホルム市の都市計画の専門家や自治体の住宅地開発の責任者など、合計5人の建築家をこの10年間に日本の要請に従って夫々建築行政に関連のある機関での講演会に講師として送り込んだ。
ところが、これらの講演会は全て予想外の結末に終わってしまった。会場では拍手もなければ、質問もなかったのである。
要するに日本の聴衆は講師の講演の内容が解らなかったのが真相であったと思われる。 問題は日本語にアーキテクチャーに相当する名詞が存在せず、アーキテクトに相当する職能もまだ確立していない社会なのである。
最も西欧の観念と異なっているのは、「アーキテクチャ」という、むしろ形而上的事象を意味する名詞を「建築」と訳し、同時に建築材料、建築現場など形而下の事象の名詞に使われている翻訳上の不合理性がこれらの日本語をきわめて非科学的な特異な言葉にしてしまったのである。
西欧の建築理論は日本語に訳せないし、日本人には理解できないというまことに不幸な現象に当面しているのである。
日本の建築の質を保証する目的で制定された建築士法によれば、「建築の設計や工事監理をする職能は建築士と称する技術者(Building Engineer)」と定義をくだされている。 従って、日本には建築家(Architect)と称する職能は小説や映画の中以外には存在していない。
『広辞苑にも建築家という言葉は載っていない』
日本の建築基準法は技術的な基準のみを対象として、建築計画上'Architecture'の基準は何もとりあげてはいない。
例えば、スウェーデンの基準によれば、住宅には機能する浴室を必要としているが、日本のそれは、計画上の要素、即ち Architecturalな問題には触れてない。
北欧の住宅地環境に慣れた目で日本の街を眺めると、日本の建築行政の本質が理解できなくなる。
新幹線の窓から眺められる大都市周辺の丘に開発されている住宅地は文化国家の建築行政の産物とは見られない。 発展途上国のスラムとしか受けとめられないし、くもの巣のごとくはり巡らされた市街地の空を暗くしている電線網は一時的な仮設工事の現象と解釈されるにちがいない。
次第に、現代の日本に住む人種は、その昔法隆寺や東大寺を造りあげた人々とは関係のない民族ではないかと疑いたくなる 。
しかし、教養豊かな、私が日本に送った建築家連中は、誰も上記のような日本の印象を一言も私には言わなかった。
スウェ-デンからホットニュース
ストックホルムの街は,バルチック海から数拾キロも入りこんだ多島海が、内湖のメーラレン湖に変わる地点に位置する、ガムラスタンと言う面積33.2へクタールの小さな島を発祥の地としている。
この島が市の南部、セーデルマルム地区に接している交通の接続点,スルッセンは市の交通網の中で最も重要な機能を保持する都市構成の心臓と、看做されている。
その複雑な構造も建設以来百年に近い年月を経過しているので、全機構の建築的及び構造的改修計画の確立は市当局にとって焦眉の急を要するプロジェクトなのである。
一方スルッセンの建築計画の公開コンペは最優秀作の公開展示も本年3月末までで現地で行われていたが、この最終案に関する市民の批判は予想以上に厳しく、ついに市民及びジャーナリズムの意向に従い、修正案を今秋再度公開展示するような結論に到達している。
市民が指摘した現最終案(フォスターとベリィーの共同設計案)の問題点は、現地からの眺望が従来のものより、著しく限定されてしまうという、市民にとって最も貴重な都市景観に関する件であり、この国の民主的な都市開発行政上の最も重要な懸案なのである。
パリならシャンゼリゼーに相当する、東京なら赤坂見付けや由緒ある麻布の住宅地に高架自動車路を市民の承諾もとらずに建設されてしまった、日本都市景観の変遷のプロセスは全く異なる意識にもとづいた行政がストックホルムの都市景観を保証している。
私が始めて対面した半世紀以前のストックホルム市の懐かしくまた美しいシルヱットは,未だにそのまま保存されている。
■ この写真はコンペ案の1つで、ガムラスタンからセーデルマルム側を見たもにです。
4本の橋と対岸にある水辺の建物郡がコンペの対象地域ですが、ガムラスタン側からの景観について多くの意見が交わされています。
■
写真、全ての内容について無断転載、改変を禁じます。